[ナオミの会 法人本部] 東京都世田谷区等々力 4-13-10  TEL.03-3701-0928

社会福祉法人 ナオミの会


フィメッ

初代理事長 
菊田澄江 (1906 - 1995)

牧師の娘としてクリスチャンホームに育つ
大阪府立女子専門学校(現 大阪府立大学 第1期生)卒
ウィルミナ女学校(現 大阪女学院)英語教師となる

初代理事長 菊田澄江

牧師の娘としてクリスチャンホームに育つ
大阪府立女子専門学校(現 大阪府立大学 第1期生)卒
ウィルミナ女学校(現 大阪女学院)英語教師となる

  1. 1932

    結婚を機に東京へ移住、3人の子どもに恵まれる

  2. 1945

    夫と死別

  3. 1948

    銀座に洋装店(ドレスメーカー ナオミ)を開く

  4. 1951

    財団法人ナオミの会設立
    ナオミホーム(母子寮)、ナオミ保育園開園(木造) 初代理事長・園長となる

  5. 1954

    ナオミホーム(母子寮8世帯)開所/ナオミ保育園(2歳児以上60名)開園
    都より児童福祉施設の認可受ける

  6. 1955

    厚生省よりナオミ保育園を社会福祉法人として認可される

  7. 1971

    ナオミホームも含めて「社会福祉法人ナオミの会」となる

  8. 1973

    東大和市上北台団地の中に、上北台こひつじ保育園開設

  9. 1975

    ナオミホーム・ナオミ保育園改築(鉄筋コンクリート造)

  10. 1995

    永眠(89歳)

  11. 2014

    大空社「福祉に生きる」シリーズにおいて
    遠藤久江氏執筆による「菊田澄江」が出版される。
    戦後の混乱期、女性が仕事をもって子育てをしていくことを応援しようと、
    多くの協力者とともに施設づくりをしていった一人の姿です。

    大空社「福祉に生きる」シリーズ

菊田澄江からの
メッセージ

明るい人生観をもって

壁に突き当った時には、みんなで智恵をしぼり合い、暴風雨に吹きさらされた時には肩寄せ合って、辛いことや苦しいことをぢっと堪え、かえって嬉しいこと楽しいことに変えてきた、この25年のナオミの歩み。
そもそものはじまりは、終戦直後からですのでもう34年前にもなりますが、当時の同志が今なお健在で、助け合いつつ生きてこられたことは、私達の努力だけでなく、人の力をはるかに越えた神の限りない守りと恵みがあったからだと思わずにはいられません。
ナオミは、戦争のために、又は戦災で、或は戦場での過労が原因した病気や事故で主人を亡くした未亡人たちが、銀座に洋装店を開き、みんなで力を合せて仕事を盛りたて、それぞれの生活を支えて来たところです。しかもその誰れもが幼い子どもを数人かかえて、日々苦労に明け暮れるうら若い未亡人の集りでもありました。

この銀座のお店が基盤になって、1951年5月より、現在の地に保育園と授産所を備えた、未亡人達のためのホームを作ることになりました。
そのために賀陽敏子夫人をはじめ、末永時恵姉、その他多くの方々にどんなにかお世話になったことでしょう。
そのホームも20年たって、つぎたし、つぎたしで拡げて来た建物が、すっかりボロボロになり、火事や地震の災害で赤ちゃんの一人でも失うことがあっては申訳ないことと、みんなの智恵をあつめ、討議を繰り返し、専門家にも、役所の方々にも相談して、鉄筋コンクリートの一部3階建ての母子寮、保育園に建て替えることに致しました。
1973年10月より、いよいよ今迄の建物をこわし、プレハブの仮園舎に移り、基礎工事も進みナマコンを入れる時になって、あの石油ショックに見舞われ、材料が2〜3倍と値上りして、当初1億5千万円の予算が、何と3億2千万円にも跳ね上ってしまいました。
今さら改築をストップも出来ず都と国の振興資金から1億円の借金をして、何とか建物は完成いたしましたが、今度はその返済が大変です。
年間1万円の後援会入会をお願いしたり、バザーへの御協力をお願いしたり、ありとあらゆる努力を重ね、何とか年間8百万円余の返済をとどこおりなく済ませて来ております。
このためには本部の三宮理事の智恵がしぼられ努力が重ねられての事です。
又数えきれない程大勢の皆様のお助けがあればこそで何とお礼もございません。
お助けいただくばかりで、何のお返しも出来なくて誠に申訳なく存じておりますが、しかし、小さい赤ちゃんを背負ってホームに入寮したお母さん方が、今は完全に自立して、たくましく生きている事や、その方々の娘や息子さん達が立派に成長して、社会の一員として活躍している事実が、せめてもの皆様へのおかえしにしていただけましたら、ありがたいことと存じます。
そのためには、母子寮長をはじめ、寮母、指導員の日夜の心づかいがあったのも又事実でございます。
保育園も開園以来、父母、職員、園の三者が常に心を一つに力を合せて、あらゆる問題を研究、討議してきました。その結果が全国に先がけて作られた「病児保育」であり、「長時間保育」又「産休明け保育」となりました。
ナオミ保育園では15年前から、夏は年長組の子どもたちを、2泊3日のキャンプにつれてゆきます。勿論子ども達だけです。
今年は群馬県水上の山奥にあります葉留日野山荘につれてゆきました。
そこでは、往復四キロのけわしい山道を歩き、千メートルの山にも登ります。その山の頂きで囲りの山々を眺めまわした時のあのキラキラと輝いた子ども達の目、ヤッホー、ヤッホーと声を限りに叫ぶその感激の声。大きな木に縄をかけてのターザンごっこ。どの子もみんな力一ぱい飛び跳ねる。落葉の中にころがる。泥だらけになる。 全く彼らのやりたいことを力いっぱいやるうちに、自分のことは自分でやれる自信がついてきます。
川巾が5メートルもある急流を、縄にすがって往復する、その遊びが一番面白かったと言った子もいます、ずい分勇気のいることです。川の水は身を切る様に冷たく、ぬれた体を焚火で暖め乍ら、焼きたての馬鈴薯を食べる子どもたちの嬉しそうなこと・・。
たった2泊3日の経験ですが、赤ちゃんから脱皮してゆく姿を、毎年確かめる思いです。
先日7年前に卒園したT君から、老人の日にお手紙をいただきました。
大人の様な言葉で「先生は僕の祖母と同じ年齢だと記憶しているので、今年は73歳になられましたね。先生のことよく思い出します。礼拝のこと、聖書のお話のこと、僕が赤ちゃんの時からナオミ保育園にいられたと言うことは、僕にとってとてもよかったと思っています」・・・と。
又この夏休みに、中学1年になった卒業生から、次の様なハガキが来ました。「今ぼくとK・Yは、イスタンブールに来ています。旅行の最中なのです。とつぜんで先生びっくりされましたか、とにかくぼくらはこれから、トルコ、イラン、アフガニスタン、インド、そして日本に帰るつもりです。」
そのK・Y君からは「今僕とK君と父とで、イスタンブールにいます。このハガキの写真は、今迄いたアテネです。いつもナオミ時代にもどって、ホテルでさわいでいます。」
世界のどこにでも元気に飛び出せる子どもたち、どこに行ってもナオミのことを思い出してくれる卒園生たち。
ナオミで学んだ礼拝のこと、聖書のお話のことを、いつまでも忘れないでいる卒園生があると言うことに、私はとても力づけられました。
雲の上には、必ず輝いた太陽のあることを忘れないで、どんなに苦しいこと辛いことにも失望しないで、それを楽しいこと、嬉しいことに変えてゆかれる、明るい人生観を持った子ども達に育てて行き度いと願っています。
25周年を記念して、母子寮、保育園の生活を綴りました。皆様への感謝の報告とお読みいただければ幸いでございます。(理事長・園長)

1979年・25周年記念誌より

菊田 澄江

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